(2025年9月14日 敬老祝福礼拝)
1.神がわたしたちの「住処」であるということ
葬式の中でよく読まれる聖書の箇所の一つに、詩編90編があります。「あなたは人を塵に返し、『人の子よ、帰れ』と仰せになります。・・・わたしたちの生涯は御怒りに消え去り、人生はため息のように消えうせます。人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。・・・」わたしはこの詩編を、しかも葬式の場で読むことに、これまでずっと「ためらい」を覚えてきました。このような悲しみの時に、人生の短さと虚しさを語ることで、いっそうの悲しみを増してしまうことに躊躇を覚えたことと、それ以上に、「わたしたちの生涯は御怒りに消え去り」とあるように、わたしたちの人生と死とが、神の怒りの前に置かれていることに、ある種に「躓き」を抱いてきたからでもありました。たしかにそれは、教理的には間違っていないわけで、わたしたちは自らの罪のゆえに、神の怒りと呪いの中に置かれていることは事実なわけですが、それにしてもそのことを、何もこのような悲しみの場であらわにする必要はないと考えてきたのです。しかしこうして『葬式の手引き』をまとめるにあたり、「生と死」についてさらに深く考えるときを持ち、様々な書籍に目を通してきましたが、その中でマルティン・ルターが書いた詩編90編についての解説(金子晴勇訳、『生と死の講話』、知泉書館)を読んで、目が開かれる思いがしました。
わたしがこの詩編に抱いた「とまどい」以上のものをルターは覚えたようで、彼がまだ若き修道僧のとき、「この詩篇を読むと神の恐るべき怒りと人間のはかなさを語る鋭いことばによって震撼され、彼は聖書を手放さなければならなかったと述懐している」ほどでした(金子晴勇、『ルターの人間学』、創文社、477頁)。しかしこの詩編を読み味わう中で、ルターは、最初に抱いたイメージとは違う視点を見い出し、これを深く読み解いていきます。ルターにすれば、まさに「わたしたちの生涯は御怒りに消え去り」とあることこそが、わたしたちにとっての「慰め」となっていくのです。ルターは、まず最初の「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ」という節に目を留めていきます。ルターの翻訳に基づけば、「主よ、あなたはわたしたちにとり、代々にわたって住処であらせられる」となります。永遠の神が、「わたしたちの住処」である、そのことにルターはまず心を留めていくのです。それは神が、「わたしたちがそこに逃れていって安全を保つような『逃れの場所』」であるということであり、「もし神がわたしたちの住処であり、神が生命であって、それに対しわたしたちがその住人であるならば、そこから必然的に帰結することはわたしたちが生命のなかにあり、そして永遠に生きるであろうということである」と語るのです(『生と死の講話』〔以下『講話』と略記〕、26頁、)。「神は生命である。それゆえに神が住処であるような人たちも神と同じく生きるであろう。・・・こうして神が生ける者たちの、また神に向かって祈る者たちの、さらに神に対する信仰を告白する者たちの生ける住処であることを彼らに確信させる」と。そしてここで神が「住処」であるということで、「『庇護』あるいは『逃れの場所』の意味に解されている」ことを指摘します(『講話』27頁)。こうして、「わたしたちにとっての希望のすべては神のうちにもっとも確実に与えられているということ、および神を逃れの場所としてもち、神の尊厳を安全にかつ永遠に憩うことのできる住まいのようにもっているがゆえにこそ、この神に向かって祈る者は、この世にて重い罰を徒にうけることも死にいたることもなく、確固として立つであろう」と結論づけるのです(『講話』28頁)。それは、「神のうちに死に対決する隠れ家があると確信する」ことだと(『講話』32頁)。そしてルターは、「わたしたちはその命令によって被造世界の全体が生まれ出るような神を所有し、礼拝し、そのような神に向かって祈る。したがって、この神がわたしたちに好意をもっていたもうならば、わたしたちは何に脅えるのか。全世界の怒りがわたしたちに向けられているとしても、わたしたちは何を恐れるのか。もし神がわたしたちの住処であるならば、たとえ天が崩壊しようとも、わたしたちは安全ではなかろうか。なぜなら、わたしたちは全世界よりも大きな存在である主なる神を所有しているから。そのみ言葉によって万物が生まれ出る力ある主を所有しているからである」と語るのでした(『講話』44頁)。
2.「祈り」による死から生への転換
そしてまさしくこのような確信は、わたしたちが「死」に脅かされている現実の中であらわにされ、確かにされていくとルターは考えたのでした。この詩編のもう一つの主題は、最初に示したとおり、わたしたちの生と死とが、「神の怒り」の前にさらされているということです。そしてまさに、「神の怒りこそわたしたちの死の根拠」なのです(『講話』12頁)。「実にわたしたちが死ぬということは、罪に対抗する神の耐えがたい怒りから生じている」ということです(『講話』13頁)。そしてその点が、他の生き物の死と根本的に違うことをルターは明らかにします。「たとえ馬や牛、また他の獣が死んだとしても、その死は神の怒りによって生じるのではなく、これらの動物にとって死はまったくもって一時的な災いにすぎない。それは神によってそのように定められており、けっして罰によらず、罰とは別の理由で死ぬることを神がよいとみなしたもうから生じる。しかし人間の死は悲惨であり、まことに無限でかつ永遠な怒りそのものである。その理由は、人間が神のみ言葉に服従して生き、神に似たものとなるように造られた被造物だからである。人間は死ぬように造られたのではない。そうではなく、死は罪の罰として定められている。・・・したがって人間の死は動物の死に似ていない。動物は自然の法則にしたがって死ぬ。人間の死は・・・怒りかつよそよそしい神から脅かされて生じている。・・・死は創造のときに授与された状態ではなく、神の怒りによって罰として科し加えられたもの、罪あるいは不従順によって避け難く負わされているものである」と(『講話』47~48頁)。こうして、「生命へ向けて造られたものが今や死へと定められている。しかも、これが神の怒りによってもたらされ、全人類は不死性から永遠の死へと投げ込まれている」というのが、「死」の意味とされるのです(『講話』51頁)。そこには、絶望しかありません。しかしまさにそこでわたしたちを徹底した絶望へと追いやることで、空虚な生への希望から引き離して、徹底的に生の源である神ご自身へと向けさせていくところに、この詩編の意味があることをルターは見たのでした。わたしたちが絶望へと追いやられる、まさにそこから真実な生が立ち上がっていくのです。
「それはこういう方法によって彼らが徹底的に驚愕させられて、自己の不幸とわざわいを理解することを学ぶためであり、彼らのもっとも重い危難にさいして適用されるべきである救いを願望するように、彼らが点火されるためである。それゆえ、彼はまず戦慄させるのであるが、それは絶滅させたり、あるいは絶望のなかで見棄てたりするためではなく、戦慄しもはや安心しなくなった人たちに慰めを示し、生きかえるべき機会を与えるためである。・・・この詩編においてとくに次の二点に注目しなければならない。第一は人間の本性が永遠の死に服していると彼が述べるとき、このことはもちろん頑迷で不信仰な、神を軽蔑する者たちを戦慄させるためなのであるが、彼は死と神の怒りとからなる暴君的圧制を強大なものとしていることである。第二は人間が絶望のうちに放置されないために、絶望に対抗して救済の手段を祈り求めていることである」(『講話』14~15頁)。ですからこの詩編には、「祈り。神の人モーセの詩」という表題がつけられていますが、それを指してルターは、「モーセがこの詩編に『祈り』という表題を与えたことは、まさにこの祈りという名称によって生命に対する希望が残っていることをほのめかしている。実際、祈りとは何か。それは援助を求めることではなかろうか。さらに罪と死の危機にさいして神に向かって祈るとはどういうことか。それは神のもとに赦しの可能性があり、このような破滅的な不幸に対抗する確実な救助策があると感じるからではなかろうか。死に対決して祈るとは生命を希望することではないか」と語ります(『講話』22~23頁)。「このようにモーセは表題そのものによって死に関する恐るべき教えに対抗する救済手段を提示する。また、この教えによって戦慄させられた者たちが絶望しないように、また他の者たちが頑固になったり無頓着になったりしないために、死の教えと救済手段との両者を結びつけている。実際、この二つの契機は結合されなければならない。それは、モーセの模範にならって信じて祈るように命じられることによって、安心せる者たちが恐れおののくようにされ、さらに驚愕した者たちが力づけられ生き返らされるためである。律法の声は『生のさ中にあってわたしたちは死のうちにある』と安心しきった者たちに不吉な歌をうたって戦慄させる。しかし、他方、福音の声は『死のさ中にあってわたしたちは生のうちにある』と歌って力づける」(『講話』24~25頁)。だからこう続けます。「モーセはこの詩編を祈りであると記している。ここに明らかなことは、真実で真面目な祈りがもつ最初の力は救いの希望を捉え、神が慈しみ深いことを確信し、したがって神のうちに死に対決する隠れ家があると確信するということである」と(『講話』32頁)。
3.「死に対決する隠れ家」の根拠
こうしてわたしたちは、「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ」(ルターの翻訳では『主よ、あなたはわたしたちにとり、代々にわたって住処であらせられる』)という最初の節へと戻ってくることになります。永遠の神が「わたしたちの住処」であるということで、それが「『庇護』あるいは『逃れの場所』の意味に解されている」ことを指摘しました。そして「このように神が『住処』と呼ばれているのは、『神の中に死に対決する隠れ家がある』と信じられているからにほかならない」ということです。そうして、「神がわれわれの住処であるということは神の庇護の下での『最も確実な生』を意味するということであり、われわれの住処は大地でも天空でも楽園でもなく、『端的に神自身』であるという被護性の確立を言う」のであり(金子晴勇、『ルターの人間学』、478~479頁)、かくして、「もし神がわたしたちの住処であり、神が生命であって、それに対しわたしたちがその住人であるならば、そこから必然的に帰結することはわたしたちが生命のなかにあり、そして永遠に生きる」ということなのです。こうして「自己の死を自覚することは、神の福音によれば、永遠の生にたいする救いの出発点」となるのであり、「だから、われわれの前には死であるものは、神の前には生命である」と言われうるのです(同書、476頁)。これが、『死のさ中にあってわたしたちは生のうちにある』ということであり、それは、「死に対決して生を希望する祈りをなす」ところにおいて立ち上っていくことなのでした(同)。
しかし、『神の中に死に対決する隠れ家がある』と信じられる根拠はどこにあるのでしょうか。この詩編講解では、そこまでの掘り下げはなされていきませんが、ルターがもう一つ、初期に語った説教が残されています。選帝侯フリードリッヒの顧問官マルクス・シャルトの依頼で書いた、『死への準備についての説教』の中でルターは、「あなたは死を、それだけ切り離して考えたり、死をあなたに即して、あるいはあなたの性質に即して考察してはならない」と説きます(『講話』174頁)。それでは何に即して見るかというと、「あなたはキリストの死だけを心にとめなければならない。そうすればあなたは生命を見いだすであろう」と続けるのです(『講話』175頁)。「キリストの像をあなたが深く、かつ、しっかりと心に銘じ、注視するに応じて、死の像はますます消滅する。こうしてあなたの心は平和を取り戻し、キリストとともに、またキリストにあって、安んじて死ぬことができる」と(同)。そこで大切なことは、「自分の想いを転じて罪を恩恵の像においてのみ注視し、この像を力のかぎり自分のうちに形成し、目前に立てるべき」だということです。それは、「十字架に付けられたキリストがあなたの罪をあなたから取り去って、あなたの代わりに担い、その息の根をとめてくださること・・・このことを堅く信じて、目の前に保ち、これを疑わないこと、それが恩恵の像を注視し、心に銘じること」なのです(『講話』176頁)。こうして「罪はもはや克服されており、キリストのうちに呑み込まれてしまった」こと、「キリストはあなたの死を引き受け、その息の根をとめたもう」ことを信じることです(『講話』177頁)。わたしたちのために十字架につけられ、神に呪われて棄てられ、裁かれて死んだキリストを見上げ、「それが『あなたのために』なされたことを信じるなら、あなたはこれと同じ信仰によって確実に救われる」のです。「だから、それをあなたの目から奪われないようにし、あなたをただキリストのうちに求め、あなたのうちに求めないようにしなさい。そうすれば、あなたは自分をキリストのうちに永遠に見いだすであろう」と勧めていきます(『講話』178~179頁)。ルターが、「あなたは死を、それだけ切り離して考えたり、死をあなたに即して、あるいはあなたの性質に即して考察してはならない」と言ったのは、そういう意味において、つまり自分の罪深さと罪の裁きにおいてではなく、キリストの死と裁きにおいて、自分の死を見るということを意味するのでした。
4.十字架の主イエスを見つめつつ
そこで、ルターがこの説教の最後で語ることは、次のことでした。「さて、見たまえ。あなたが死を喜んで迎え入れ、死を恐れないで克服するために、あなたの神はあなたに対し何をしなければならないのか。あなたが死・罪・地獄の像によって驚愕しないために、神はキリストの内に生命・恩恵・救いの像をあなたに示し与えたもう。さらに神はあなたの死・あなたの罪・あなたの地獄をその最愛のみ子に負わせ、あなたのためにそれに勝利し、それがあなたを害さないようにしたもう。それに加えて神はあなたの死・罪・地獄の試練をもみ子の上に移し、試練に耐え、試練が害さないように、さらに試練を耐えやすくするようにあなたに教えたもう。神はあなたにこれらすべてについて確かなしるし、つまり聖なるサクラメントを与えて、あなたが疑いをもたないようになしたもう。神はその天使たちとすべての聖徒たちおよびすべての被造物に命じて、ご自身と一緒にあなたに目をとめ、あなたの魂に注目し、これを受け入れたもう。あなたが神からこのことを願い求め、その願いが聞き入れられることを確信しなさい、と神は命じたもう。これ以上の何を神はなすことができようか。あるいは神はなすべきであろうか」と(『講話』196~197頁)。
こうしてわたしたちは、『生のさ中にあってわたしたちは死のうちにある』と、恐れおののく生き方ではなくて、まさにその『死のさ中にあってわたしたちは生のうちにある』と歌っていくことができる生き方へと変えられていきました。いつの日か、わたしたちも、自分の死を迎えます。そこでいよいよ自分の死を前にしながら、これまで持ってきた一つ一つのものをはぎとられていき、また確かだと寄り頼んできたものが、もろくも崩れ去っていき、何一つ礎となる土台がないことを思い知らされていく中で、最後のひとつである自分の命さえもが取り去られようとしているとき、まさにそこで、わたしのために十字架で死に、復活してくださった主イエスを見上げて信じることができる信仰へと導かれ、そこへと日々に高められていきたいと願います。この「あとがき」は、熊澤義宣先生の「神学的死生学試論」(『キリスト教死生学論集』、教文館)から教えられて、その論文が元にしたルターの『生と死の講話』を読んだことに基づくものでした。その論考の最後で、熊澤氏はパウル・ゲルハルトの祈りをあげています(熊澤義宣、『キリスト教死生学論集』、教文館、50頁、トゥルナイゼン、『牧会学Ⅱ』、日本基督教団出版局、307~308頁)。
わたしがひとたびは死別すべきであろうとも、わたしから離れないでください。
わたしが死を苦しむべきだとしても、その時あなたが来てください。
わたしの心が、きわめて不安になる時に、あなたの不安と苦悩の力によって、
わたしを不安から引き放ってください。
最後にルターの臨終の祈りをもって、この「あとがき」を締めくくりたいと思います。
全能にして永遠なる憐れみの主なる神よ、
あなたはわたしたちの愛する主イエス・キリストの父でありたもう。・・・
あなたはまずあなたの愛する独り子イエス・キリストをわたしに告げ知らせたもうた。彼は来たりたもうた、そしてわたしをサタンと陰府と罪から救い出したもうた。それから恵み深い御意志によって、もっと大いなる安全のために聖なる洗礼と祭壇のサクラメントとパンと葡萄酒によって、わたしたちの愛する主イエス・キリストの真の自然のままの体と血のサクラメントを、わたしに贈り、この中でわたしに提供された罪の赦しと永遠の生命とすべての天の宝を与えたもうた。
わたしはこのようなあなたの賜物によって、これを用いた、そして信仰においてあなたの御言葉に堅く信頼して、それらの賜物を受けた。それゆえわたしは今、サタンと死と陰府と罪の前に全く安全であり、満ち足りていることを少しも疑わない。これがわたしの臨終であり、あなたの聖なる御意志であるならば、あなたの御言葉によって平安と喜悦をもって去って往きたい。そしてあなたとともに、あなたの懐のなかへ往きたい。 (ルター、『祈りと慰めの言葉』、新教出版社、128~129頁)
