第18講「信仰に基づいて与えられる義」(フィリピ3章8~11節、12月29日)
〔今週の御言葉-私訳と黙想 フィリピ3章8~11節 信仰に基づいて与えられる義〕
8それどころか、わたしの主であるイエス・キリストの知識の超越のゆえに、すべてのものを損失と見なしています。この方のゆえに、わたしはすべてを失いましたが、キリストを獲得するために、(それらを)わたしは糞尿と見なしています。9そしてわたしは彼の中に見つけられるためです。すなわちわたしは、わたしのものとなる義を律法から持つ者ではなく、かえってキリストへの信仰により、信仰に基づく神からの義を持つ者であり、10わたしは、彼(キリスト)と彼(キリスト)の復活の力を知り、彼(キリスト)の数々の苦しみにあずかることを知って、彼(キリスト)の死と同じ形に変えられています。11できるなら何とかして、わたしは死者からの復活(の状態)に到達したいのです。
パウロが生まれながらに持ち合わせていたもの、それはユダヤ人社会の中で非常に優れたものでした。それは一言でいえば「律法による義」でした。パウロはこの点でひときわ他の人よりも優れていましたし、それを誇りともして生きていたのでした。しかしそのパウロが復活の栄光のキリストに出会ったときに、それらはキリストの義の栄光の前に色褪せ、ひどく惨めなものに見えるようになりました。そしてそれを「損失」「糞尿」と見なすようになっていったのでした。それからのパウロは、「律法によって(自分で)獲得する自分の義」を追求する人生から、「キリストへの信仰によって(神から)与えられる神の義」を追求する人生へと変えられていきました。そして義人である自分を際立たせるのではなくて、キリストの中に自分が見出されるようになることを追い求める者となりました。そのためには「彼(キリスト)と彼(キリスト)の復活の力を知り、彼(キリスト)の数々の苦しみにあずかることを知って、彼(キリスト)の死と同じ形に変えられて」いくことが必要でした。そうしてパウロは「できるなら何とかして、わたしは死者からの復活(の状態)に到達したい」と考えたのでした。そのことを表すのが洗礼です。洗礼によってわたしたちは、罪に満ちた古い自分に死に、キリストにある新しい自分として生き返ったのでした。日毎に新しい自分となって生まれ変わることを願う、一年を迎えたいと思います。
