神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとする歩み -『ウェストミンスター信仰告白』に学ぶキリスト教信仰-1

〔今週の御言葉 ローマ10章9~17節 信仰の家族の中で支えられる信仰の言葉〕

 

信条というのは洗礼を受ける際の信仰として告白されたものでした。洗礼を受けるとき、「あなたは全能の父なる神を信じますか」「神の子イエス・キリストを信じますか」「聖霊を信じますか」と三度質問されて、その度に「わたしは信じます」と答え、水の中に沈められました。そこから生まれたのが信条です。ですから最初は「わたしは信じます」という個別的で主体的なものでした。信仰は一人一人の個別的なもので、誰かが代わりに信じてあげるということはできません。その意味では、「わたしは信じます」という言い方こそが信仰告白としては当然でしょう。ですからここでわたしたちは一緒に声を合わせて、「わたしたちは信じます」と告白しますが、それはここに集まっているわたしたちの一人一人がそれぞれに「わたしは信じます」と告白しながら、その一つ一つの「わたしは信じます」が集められた告白が、「わたしたちは信じます」という告白となって、神へと告白されているのです。ここでわたしたちは一人一人が「わたしは信じます」と告白することによって、ただ独り神の前に立たせられ、神へと向き合わされます。そしてまたこの世と対峙します。この世に向かって「わたしは信じます」と証しします。確かにわたしたちは、それぞれ自分の信仰の戦いを自分自身で戦っていかなければなりません。それは誰も代わってはもらえない厳しい戦いです。しかしそこで忘れてはならないことは、そこでの「わたし」は決して独りぼっちではないということです。決して孤独な戦いをしているのではない。そこで祈ってくれている信仰の友がいるのです。崩れそうになる「わたし」を、そこで支えてくれる信仰の家族がいるのです。それぞれが「わたしは信じます」と個別の戦いを担っているわけですが、その一人一人が一緒に「わたしたちは信じます」と告白する中で、互いの戦いを覚えて共に戦うのです。もう「わたしは信じます」とは言えないと崩れそうになるとき、そこで崩れないように腕を組んで支えてくれる信仰の友がいるのです。それでも力をなくして倒れ伏してしまうときには、そこから立ち上がらせてくれる信仰の家族がいる、だからわたしたちはそれぞれに自分の「わたしは信じます」という告白を続けていくけれども、それは「わたしたちは信じます」という大きな信仰の合唱の中に加えられて、支えられながら、共に告白し続けているのです。